まずは定例のご案内。今度の土曜は封神サーチにて太乙チャットです。
皆様奮ってご参加くださいませ!
本日の議題は、「黙っていれば美形なのに・・・」の太乙様が真骨頂を発揮する「木乃伊」です。
全体的に能天気なトーンで進んでいくこのお話は、封神の中の位置づけとしてはギャグパートですよね。
わかっています。ギャグパートを深刻な顔で語るなんて野暮の極みだって。
でも仕方ないんですよ!太乙にとってはちっともギャグになってないんですから!
実は当初から夢見がちな太乙ファンだった私は、この回の彼の行動に大変な違和感がありました。
太乙がやったことを簡単にまとめてしまうと
「己の限界をわきまえずに無理を重ねた挙句、崩壊して作戦の進捗に支障をきたした」
ってことになってしまいますよね。酷なようですが、後方支援のあり方としては最低です。
ここからは盛大に贔屓目が入るのをお断りしますが、おおよそ太乙らしからぬミスだと思うんですよ。
彼は全体の中での立ち位置をよくわきまえた人に見えます。我を張ってしゃしゃるタイプでもない。
工学の権威とされるだけの頭脳を持ち、その思考力を人を率いる地位で長年活かしてきた彼が
後方組に何が求められているのかを考えなかったとしたら、それこそ「何をやってるんだ」って話になりますよね。
恐らく常の太乙だったらあんなことにならなかったと思うのです。
それだけに「木乃伊」になってしまった現実は、彼が冷静じゃなかったことを示していると思うんですよ。
周りが見えていなかったし、自分を見失っていた。
文字通り身を削るようにして自分自身を追い詰めていった理由は、時期的に考えてこれしかないでしょう。
そう、十二仙でありながら生き残った罪悪感・・・。
彼の悲しみなり怒りなりがこんな形で暴発してしまったのは、
ここに至るまで放出する機会がなかったからのような気がしてなりません。
常のへらへらとした態度を取り繕って、自分の本心と向き合わなかった、とか。
師叔のように涙を流すことなんてできなかったんじゃないでしょうか。
個人の感情に溺れているわけにはいかない立場の人間にとって、
圧倒的な感情を解き放つというのはかなり勇気がいることのように思います。
自分が感情にいつまでも引きずられずに、本筋に立ち戻れることを信じられなければ難しいでしょう。
師叔の持っていたこうした強さ、太乙にはなかったんじゃないかなーという個人的イメージです。
拍手たくさんありがとうございました!とりとめのない独り言を読んで下さる方がこんなにいらっしゃるとは・・・!感激です!!
お返事は続きからどうぞ!
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サーチの方のチャットにお越しくださった方、ありがとうございました!
カップリング月間は2月いっぱい続きますので、どうぞよろしくお願いします!
来月は太乙月間ですので、こちらにもぜひぜひ足を延ばして下さいね!
さて、本日は封神カプのお話。
実は私、純粋なカップリング萌えから入ったのは昌太だけだったりします(公式カプ除く)
基本的にはキャラ萌えなんですね。太乙が大好きで、太公望が大好き。
この二人が一番幸せになるカップリングは誰だろうと私なりに考えた末に導かれたのが、玉乙と楊太なんです。
特に玉乙は、道乙とどちらを取るか随分悩みました。
道徳は太乙をぐいぐい引っ張っていって、彼の抱えるものを他の何かに変換するパワーを持つ人で、
玉鼎はどんな時にも、どんなにじれったくても見守り続ける忍耐がある人だと思うんですよ。
二人とも太乙を幸せにしてくれそうですよね!
結局玉鼎を選んだのは、太乙が作中で迎える困難(=愛する人の封神)に際して、玉鼎の接し方の方が
「距離は違っても彼は見守り続けてくれている」的な方向に繋がりやすいかなーと思ったからです。
忘れ形見(=弟子)が封神されるかされないか、というのも微妙に考慮に入れていたかも。
太公望には「幸せになって」だけではすまされない後ろめたい願望もあったりしますが、
太乙に関しては割と純粋に幸福を望んでいるんですよ。作品は薄暗いですけども!
カップリング月間の〆のつもりでしたが、来月が楽しみで仕方ないよ記事になりました。
運営は贔屓なしでやってますが(全キャラ好きだし!)、お気に入りキャラはやっぱりテンションが上がりますね。
拍手たくさんありがとうございました!お返事は続きからどうぞ。
本日更新1件。今年最初の封神です。長らくお待たせしました。
ただいま谷川俊太郎フェア中。今回は伏羲っぽい詩です。
思い出しておくれ
あの日のこと
楽しかったあの日のこと
けれどそれももう過ぎ去って
じゃあね
ひとりぼっちはこわいけど
きみにはきみの明日がある
どこか見知らぬ宇宙のかなたで
また会うこともあるかもしれない
じゃあね
もう振り返らなくていいんだよ
さよならよりもさりげなく
じゃあね じゃあね・・・
(谷川俊太郎「じゃあね」より)
実はこの詩についてある方と話題にしたことがあるんです。
その中で気付いたのですが、この詩が伏羲っぽいと感じるのは私自身の願望かもしれません。
伏羲を名乗る前のどの時代をとっても、彼は基本的に誰に対しても「求められるものを与える人」であり続けてきたと思うんですよ。
それは「一緒にいる」ことだった場合もあるだろうし、「突き放す」という形につながる場面もあったかもしれない。
どんな関係であれ、常にそこには「自分がどのように必要とされているか」という彼の関心が透けて見えるんですよね。
そんな彼だからこそ、今しばらくの間しがらみから離れて、自分が求めるものを自身に問いかけてほしいんです。
会いたいと探す人を振り切り、心の底では心配しているであろう人たちを待たせて。
そういう時間が伏羲には必要だと思うのです。
・・・・この願望自体も、リンク先サイト様のある作品に影響されて意識するようになったことなのですが。
そしていつか「自分が求めるもの」の中に今までに築いてきた人間関係を見つけてほしいな。
「また会うこともあるかもしれない」ですから。
このあたりが投影されたのが「
歩き出せ、クローバー」だったかもしれません。
拍手ありがとうございました!お返事は続きからどうぞ!