最初に事務連絡をば。
本日2サイト様にリンクさせていただきました。
詩情あふれる素敵なサイト様です。ルパンファンの皆様、ムーミンファンの皆様、いざときめきの世界へ!
封神ファンの皆様にも恒例のご連絡を。
今週土曜はサーチの方で「BL・GLチャット」です。お気軽にお立ち寄りいただけると嬉しいです!
さて、本日は太公望と新スナフキンの「自己犠牲筆頭二人」について。
どちらのファンの方にもまどろっこしい仕様ですみません。
太公望は「封神演義」という作品に出てくるキャラクターです。
詳しいことは省きますが、この人が本当にすごい。何がすごいって、自己犠牲ぶりがすごい。
いつも他人優先で、自分のことには恐ろしいほど無頓着。
利き腕が吹き飛ぶくらいじゃ顔色一つ変えません。
みんなが笑っていてくれるのがともかく幸せ。その輪の中に自分がいなくてもいい。
与えるだけ与えて、人には何も求めない。そんな人です。
彼を好きになって10年くらい経つのですが、私の中で自己犠牲キャラランキングの首位をひた走り続けてきました。
誓って言いますが、本当に10年間一回も疑問を持つことすらなく、太公望の自己犠牲を越えるキャラはいないと信じて来たのです。
このレベルの確信が崩れる衝撃って、どう表現したらよいのでしょうか。
ちょっと思いつかなくて、長々と事実を書き連ねて来たのですが。
新スナフキンさんの自己犠牲は、正直今までに見たことのないレベルです。
太公望の時に感じた「あまりに利他的すぎて見ていて辛い」を通り越して、「厳しすぎて途方に暮れてしまう」レベルです。
新スナフキンさんは、人のことを大切にしすぎるあまり、友達が死んだ直後ですら自分の悲しみに浸ることが許せないんですよ。
泣きわめいたりせずに、「死んだ人のために祈ってやらなくちゃ」って言うんですよ。
これには驚くを通り越して呆然としました。
誰かを亡くすってこの世で最も悲しいことの一つじゃないですか。
そんな時ですら、新スナフキンさんは他人の気持ちが優先で、自分を殺してしまうんです。
あの太公望師叔だって、親しい人たちを亡くした時には泣いてくれたのに。
大体新スナフキンが自分のために何かを望んだ描写って、作中ただの一度も出てこないんですよ。
太公望さんですら自分の生きがい(=封神計画)を貫き、それなりにわがままを押し付けられる友人(=普賢)がいたのに!そのレベルの「個人の幸せ」もないって、一体どこに幸せを見出したらいいのですか!
知ってますよ。スナフキンは「自分が持つ規範に妥協せずに生きていくこと」自体が幸せなんだって・・・。
でもね、他の人に対しては正しさだけではない「感情」を人一倍尊重して掬ってやれるんですから、自分にもその寛容さを持てばいいと思うんですよ。
太公望も新スナフキンも人のためばかりという印象が強くありますが、まだ太公望の方が「自分のため」への可能性を感じられます。
そんなわけで私の中の「自己犠牲キャラランキング」の一位は太公望から新スナフキンに明け渡されたのでした。わーパチパチパチ。全然めでたくないぞ。
結局のところ、太公望は「自分のために求めることへの可能性」があることが好きで、新スナフキンは感じられないところが好きなので、それぞれの良さですね。
でも、新スナフキンのこの人物造形はあまりに逃げ場がなさ過ぎて、キャラクターとしてはどうなんだろう・・・と思わなくてもありません。私の見方が偏りすぎているのかな・・・。
※封神サイドで読んで下さった方へ
新スナフキンとは1972年制作の和製アニメに登場するスナフキンです。今もテレビでよく見る緑帽子の坊や(平成版)とは別人です。
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本日更新1件。今年最初の封神です。長らくお待たせしました。
ただいま谷川俊太郎フェア中。今回は伏羲っぽい詩です。
思い出しておくれ
あの日のこと
楽しかったあの日のこと
けれどそれももう過ぎ去って
じゃあね
ひとりぼっちはこわいけど
きみにはきみの明日がある
どこか見知らぬ宇宙のかなたで
また会うこともあるかもしれない
じゃあね
もう振り返らなくていいんだよ
さよならよりもさりげなく
じゃあね じゃあね・・・
(谷川俊太郎「じゃあね」より)
実はこの詩についてある方と話題にしたことがあるんです。
その中で気付いたのですが、この詩が伏羲っぽいと感じるのは私自身の願望かもしれません。
伏羲を名乗る前のどの時代をとっても、彼は基本的に誰に対しても「求められるものを与える人」であり続けてきたと思うんですよ。
それは「一緒にいる」ことだった場合もあるだろうし、「突き放す」という形につながる場面もあったかもしれない。
どんな関係であれ、常にそこには「自分がどのように必要とされているか」という彼の関心が透けて見えるんですよね。
そんな彼だからこそ、今しばらくの間しがらみから離れて、自分が求めるものを自身に問いかけてほしいんです。
会いたいと探す人を振り切り、心の底では心配しているであろう人たちを待たせて。
そういう時間が伏羲には必要だと思うのです。
・・・・この願望自体も、リンク先サイト様のある作品に影響されて意識するようになったことなのですが。
そしていつか「自分が求めるもの」の中に今までに築いてきた人間関係を見つけてほしいな。
「また会うこともあるかもしれない」ですから。
このあたりが投影されたのが「
歩き出せ、クローバー」だったかもしれません。
拍手ありがとうございました!お返事は続きからどうぞ!
泣いているきみのとなりに座って
ぼくはきみの胸の中の草原を想う
ぼくが行ったことのないそこで
きみは広い広い空にむかって歌っている
(中略)
きみの涙のひとしずくのうちに
あらゆる時代のあらゆる人々がいて
ぼくは彼らにむかって言うだろう
泣いているきみが好きだと
谷川俊太郎さんの「泣いているきみ」より抜粋。
この踏み込んでいかない感じ!それでいて寄り添っている感じ!
「先生、これってドドメのことですよね?」とうっかり聞きたくなるほどの符合具合じゃないですか!
ドドメはドロドロした部分を抱えているはずなのに、あくまでも透明でファンタジックです。
だから詩がよく似合う!
これから一週間ほど谷川俊太郎フェアを開催したいと思います。
今度は誰っぽい作品にしようかな~。
拍手ありがとうございます!一足早く春を先取りさせていただいている気分です!