久々にSS置き場を更新しました。ルパン様と次元ちゃん。
せっかくタグ打ちの必要ない手軽な場所があるんだから、もっと有効利用したいですよね(他人事のように)
さてさて、ブログの方は封神語りに参りますね。
封神のラストに関して「封神された人たちが普通に勢ぞろいしていて今までの感動はなんだったのかと拍子抜けする」という評をたまに見かけます。
個人的にはあのラストが気に入っていますが、確かにそういう感想もありえますよね~。
しかし今までの感動を無に帰しかねない要素の真打といえば、ジョカが最後に放った一言でしょう!
「おぬしの仲間のあの気持ちが私に操られた結果ではなくあの者たちの内から出てきたものであってほしいと・・・おまえはそう思うのだろうな」
そうです。作中の出来事がすべてジョカの思惑通りだったとしたら。
玉鼎が楊ぜんをかばったのも、普賢が自爆という道を選んだのも、十二仙がそれに追随したのも、
すべて枕辺に立ったジョカが囁きかけた結果だったとしたら。
ジョカの暗示を認識するだけの能力値に達していなかった彼ら自身、他ならぬ自分自身の意思だと信じていたとしたら。
・・・こうした可能性がゼロになるような証拠も理屈も私には見つかりません。
だとすれば「彼らの行動選択にジョカが介在していない」というのは悪魔の証明です。
読者の作品観に対してすら深刻な打撃を与える疑惑です。
作中の人たちにとってはまさに足元が崩れていくような衝撃だったでしょう。
ですから元始があれだけ冷酷に犠牲を払ってまでジョカを排除しようとした気持ちもわかるような気がします。
本人に知られずに行動決定を操作するというのは、言ってみれば自由意思への挑戦です。
そして自由意思に挑戦するというのは、自由意思の存在を前提にして成り立っている自己や他者への信頼感に対して挑戦していることでもあります。
ジョカが期したことではないとはいえ、元始があらゆるもの事に向けていた信頼は一度粉砕されたのではないでしょうか。
だとしたら元始の執念ともいえる怒りは全くもって正当だったと思うのです。
そして自分自身や周囲に対する不信を抱きながらも、疑心暗鬼で道を誤ることなく計画を遂行した彼は、やはり傑物だなあと改めて思うわけです。
だからと言って元始のあれやこれやをすんなり受け入れられるわけでもないんですけどね・・・(笑)
拍手ありがとうございます!皆様よい連休をお過ごしくださいね。
当サイトは本日で3周年を迎えました。
行き当たりばったりでサイトを開いた当初は3年も続くとは思いませんでしたよ・・・。
何せ私、根気のなさには定評があります。
そんな根性なしがここまでやってこられたのは、
ひとえに優しく温かく見守ってくださる皆様のお力添えあってのことです!いつもありがとうございます。
萌え・文章ともに迷走し続けるサイトですが、今後ともよろしくお願いします。
本日は封神で1件更新。太乙不在の太乙小説です。
「生き残りとしての太乙」はすでに書き尽くされた感がありますが、
蛇足でもいいから自分なりの作品に仕上げなければならないテーマだとずっと考えていました。
しかしこれが難しい。
太乙の気持ちをどこに帰着させればいいのか、どういう方向性の作品にすればいいのか、という以前に
そもそも崑崙なき後の太乙がどんな心情を抱いていたのかをいまだに掴みかねているんです。
永遠に一緒に生きていくことを疑いもせず何百年も過ごした仲間たちと死に別れ、
運命を共にするはずが自分だけ取り残され、
責任感と多忙と負い目で悲嘆に暮れることもできず、
事の全容が判明してみれば仲間たちが浮かばれないこと山の如しで、
すべてが終わってようやく悲しむゆとりが生まれた頃には仲間たちとの再会を果たし、じきに自分も同じ場所に行くことがわかってしまい・・・
ってこれはどういう気持ちになるの!?私の人生経験値ではとても計り知れないよ!
というわけで太乙小説なのに太乙がいないのは単なる逃げです。
ああいう形でも一度なにか書いておいてもいいんじゃないかと思いまして(小声)
今の段階で一つだけ言えそうなことがあるとしたら、
ある一点で昇華されるような悲しみにはならないのかなあという気がします。
ずっと折り合いをつけながら抱えていかなければいけないんじゃないかなあと。
・・・こう言ってしまうとものすごく暗く伝わってしまいそうですが、
抱えていくことで太乙の何かが決定的に変わってしまうわけではないんだとも思うんですよ。
脆さとしなやかさが紙一重なのが太乙なので。
解説をつけなきゃいけない作品は駄作だっておばあちゃんが言ってた!
いつか太乙視点でのお話も書けるといいなあと思っています。あと10年後くらいに。
拍手たくさんありがとうございました!大変申し訳ございませんが、お返事は次回させていただきます。